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2024.05.17
先生、これってなぜですか? Vol.7

人がつまずいて転ぶのはなぜ?

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日常で見聞きし体験していることの中には、「これって、どうなっているのだろう?」「なんで?」と思っていることがありませんか。そんな疑問に、本学の教員がご自身の研究を通してお答えします。

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樋口 貴広 教授
人間健康科学研究科人間健康科学専攻 ヘルスプロモーションサイエンス学域 樋口 貴広 教授

東北大学文学部卒業後、同大学院文学研究科(心理学)博士課程修了。日本学術振興会特別研究員やカナダ・ウォータールー大学客員研究員などを経て、2006年に助教として首都大学東京人間健康科学研究科に着任。准教授を経て2015年より現職。専門は実験心理学、認知科学。著書に『身体運動学:知覚・認知からのメッセージ』(三輪書店)、『姿勢と歩行:協調からひも解く』(三輪書店)、『知覚に根ざしたリハビリテーション』(シービーアール)などがある。

疑問:高齢者がつまずきやすいのは体力の低下が原因ですか?

樋口 貴広 教授
樋口先生
答え:体力のある高齢者でも調整力の低下により転ぶことがあります。

Q. まずは樋口先生の研究テーマから教えてください。

 私が研究で着目しているのは、人間が持つ「調整力」です。私たちの脳は、環境や生体の内部で起こる様々な変化を考慮して、動きをコントロールしています。そのカギとなるのが、「予測」と「反応」という2つの調整作用です。予測とは、文脈や過去の経験に基づいて状況を先読みし、トラブルがないように未然に対処する機能です。道路がデコボコしていれば、事前に歩き方を調整して、転ぶことがないようにしています。反応は、それでも万が一バランスを崩してしまった場合、元に戻すために姿勢を変える働きをします。
 予測と反応のいずれも、私たちが特に意識せずとも、自動的に働いている感覚があります。とはいえ、全く認知的な資源や努力を必要としないわけではありません。深く考え事をしたり、ぼーっとしたりしていると、本来脳が期待する情報がうまく入ってこないなどの理由で、正しく予測や反応ができないことがあります。たとえ若い人でも何もないところでつまずいたり転んだりしてしまうことがあるのは、こうした理由によって2つの調整が正しく機能しなかった結果と解釈しています。
 私の研究室では、体力のある元気な高齢者でも転倒してしまう理由にこの2つの調整機能の低下があると考え、研究を行っています。高齢者の転倒防止は、世界中の歩行研究者の共通目標です。一般に、転倒のバロメータは体力の低下と関連しています。具体的には、筋肉の量や質の低下、歩行速度の低下などが挙げられます。しかし不思議なことに、こうした兆候が全くなく、若い学生さんと遜色ないほどに運動や健康に気を付けている高齢者でも、歩行中に転倒することがあります。また転倒をきっかけに、体力維持のための運動習慣が途切れ、それがきっかけで一気に体力やこころの機能が低下することもあります。視力の低下や反応の遅れなど、年を重ねることで起こる変化は、2つの調整機能に様々な悪影響をもたらします。私たちはそうした問題を、実験心理学的な手法や動作解析を駆使することで明らかにし、転倒の防止に役立てようとしています。

Q. 高齢者の転倒防止に向けた対策にはどのようなものがありますか?

 私の研究室で現在注目しているのが、VR(Virtual Reality)技術の活用です。以前から、歩行のリハビリテーションにVR技術を活用しようとする試みがあります。ヘッドマウントディスプレイを装着し、変わる景色を見ながら歩いたり、景色の中にゲーム要素を加えたりしながら、歩行訓練自体が楽しくなるような工夫がなされています。私の研究室では、高齢者が障害物を安全に避ける能力を、VR環境での歩行経験によって向上させる試みを行っています。VR環境の魅力の一つは、実際の衝突が起こらないことです。つまり、「失敗が許される環境」の中で、少し難しい衝突回避の課題にチャレンジしてもらうことで、能力向上につながるのではないかと考えています。
 VR技術を使った歩行研究としては、そのほかにも、横断歩道を渡る場面を再現し、車の往来の中で、高齢者が安全に横断歩道を渡れるタイミングを予測できるかを評価するといったものもあります。将来的にはこうした評価を、高齢者の自動車運転の適性評価に応用できないかと考えています。

VR課題の様子
狭い空間を通る際の衝突を予測させるVR課題

Q. 先生の研究室にはどのような学生が在籍していますか?

 大学院生で最も多いのは、理学療法士の資格を持つ専門家で、運動生理学や機能解剖学をはじめとした専門知識と技術を持つ方々です。理学療法における問題解決だけでなく、人間の心理や動きに関する「なぜ」を深く探究しようとする方々が、研究室には多くいます。
 リハビリテーションによって患者の筋力や関節可動域は高めることができても、どうしても転んでしまう人はいます。ハードとしての身体を整えても、ソフトとしての認知や判断に問題がある場合があり、日常的に多く歩いている元気な高齢者でも転倒は起こります。このような問題にいち早く気付かれた理学療法士の方々が、元気な高齢者を転ばせない方法の探究として、高齢者の知覚や認知機能に着目し、私の研究室で一緒に研究をしてくれています。
 理学療法士の方々が私の研究室に興味を持ってくれた背景には、執筆した書籍の影響が大きいと考えています。私の研究室を選んでくれた学生や、かつて共同研究を行った企業の方々からは、私の本を読んだことがこの分野の研究に興味を持つきっかけになったという声を聞きます。研究者は論文を執筆し、海外の権威あるジャーナルに掲載されることで高い評価が得られますが、自分の考えをしっかりと本一冊にまとめ、多くの人の目に触れるようにすることも、普及という意味では重要だと考えています。
 実際、2024年度からは、かつて12年連続でパワーリフティング105kg級の日本チャンピオンの座に君臨し、日本記録保持者でもある阿久津貴史さんが、私の書籍に触れたことがきっかけで研究室に入ってくれました。パワーリフティングでは、最大の力発揮に向けた筋力トレーニングが求められますが、その第一人者が、最大の力発揮を追求する研究ではなく、バーを持つ際の感覚や認知に興味を持ち、私の研究室で一緒に研究してくれることに、大いなる喜びを感じます。
 私の研究室の魅力は、このような各分野のプロフェッショナルから刺激を受けながら研究できる点にあります。もちろん、学部卒業後にストレートで大学院に進学した学生も在籍しています。人間健康科学副専攻コースを履修してもらえれば、スポーツや運動、健康に関連する大学院の研究を学部時代に体験し、将来の検討に活かすこともできます。

「身体運動学:知覚・認知からのメッセージ」表紙
2008年に三輪書店から発売された『身体運動学:知覚・認知からのメッセージ』。

Q. 今後の展望として新たに挑戦される研究テーマがあればお聞かせください。

 歩行研究で明らかにしてきた調整力の問題が、「不器用さ」の理解にも役立つと考え、新たに研究を始めました。現在はボールをキャッチする動作を対象としています。ボールをつかむ動作それ自体にアプローチするのではなく、ボールを適切に眼で捉え、その軌道を正確に予測するのに必要な調整をサポートすることで、ボールキャッチが苦手な子のパフォーマンスを上げられないかと考えています。
 この研究でもやはり、VR技術が大いに役立っています。ボールキャッチがうまくできない人の中には、タイミングがうまく取れない人がいます。ボールの重力加速度を正しく検知するのが難しく、ボールの軌道やキャッチのタイミングが予測できないことも原因の一つと考えられています。このため、まずは先行研究で成功例が報告されている、VR環境で重力加速度を少し減らしてあげて、キャッチのタイミングをつかんでもらうということから研究を始めています。将来的には研究室独自のアプローチで、不器用さの克服のヒントを生み出したいなと考えています。

装着するヘッドマウントディスプレイ
装着するヘッドマウントディスプレイ
VR技術を活用した練習の様子。
上空から落ちてくるボールをキャッチするための、VR技術を活用した練習の様子。ボール軌道をどのように見て、どのように予測するかを支援することで、ボール操作が苦手な子のキャッチを改善させる試みをしています。

樋口先生ご自身のことについて

Q. 先生がこの分野に進んだ経緯を教えてください。

 私は中学から大学院まで陸上競技に取り組んだのですが、どれだけ一生懸命に練習を重ねても、大会で緊張し、実力を発揮できないことがありました。オリンピックレベルの選手でも本番では緊張するといいますし、そんな感情の揺らぎの原因を知りたいという思いが出発点です。いわゆるこころの問題に興味を持って大学で心理学を専攻し、自分が好きな陸上やスポーツをテーマにして、自由に研究を進めることができました。
 自分自身が学生時代に学びたかったテーマに没頭できたことからは、学術的・社会的意義はともかく、多くの学びがありました。ただ、ある転機を経て、運動の研究によって得た知見を「健康」という広いフィールドで活かせることに気付き、研究テーマを変えることにしました。その転機とは、運動に関する知識をものづくりに活かすプロジェクトで、車いすの研究に携わったことでした。車いす利用者が狭い通路を通る際に、「通り抜けられる」と思っても思いどおりにいかないケースがあるため、利用者の車両(車幅)感覚や状況判断について研究を行い、健康・福祉分野へと領域を広げました。これが、高齢者の歩行における調整力の研究の原点です。

ゼミのスポーツイベントの様子
先生も参加して開催されたゼミのスポーツイベント。プレイヤーでなくなってもスポーツへの関心は高く、研究室での交流に積極的に役立てています。

Q. 最後に、先生の研究スタイルや、今後の目標をお聞かせください。

 私はあるときから、目標重視で考えるのをやめ、目の前のオーダー一つ一つに応えるスタイルを好むようになりました。例えるならば、アリ(蟻)の巣づくりのようなスタイルでしょうか。アリの巣は設計図があるわけではなく、目の前のタスクを日々こなし続けていくことで、結果的に壮大かつ合理的な巣が完成します。様々な「局所解」を積み重ねていくことで、全体的な「最適解」を生み出しています。私たちの仕事にもそのような側面があるかなと考えるようになってから、あまり目標を固定化しすぎないようにしています。その結果、仕事のジャンルを問わずに与えられた目の前の仕事に集中できるようになった気がします。
 もちろん具体的な目標として、高齢者の安全な歩行に貢献したい気持ちは強いですし、近年は不器用な子どもにとってのスポーツの意味についても深く考えています。「飛んできたボールをキャッチできない」「大縄跳びのタイミングがつかめない」といったことに悩んでいる子どもたちの問題解決につながるような研究を進め、自分なりに何らかの答えを導き出したいですね。

樋口 貴広 教授

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人間健康科学研究科 ヘルスプロモーションサイエンス学域 樋口 貴広教授(ひぐち たかひろ)
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