即効性を求めず結論を急がない「待つ」事の意義とは?
新たに発表された研究成果をもとに研究の魅力や醍醐味について語ってもらうシリーズ企画「私の研究最前線」。第2回目は、法と正義のあり方について人類学的な見地から東アフリカで調査を進め、2020年には著書が2つの学会で表彰された人文社会学部の石田慎一郎先生にお話を伺いました。
人文社会学部 人間社会学科 石田 慎一郎准教授
慶應義塾大学文学部史学科民族学考古学専攻卒業後、東京都立大学社会科学研究科社会人類学専攻博士課程修了(博士・社会人類学)。大阪大学人間科学研究科特任助教などを経て現職。この間、成蹊大学・慶應義塾大学ほか非常勤講師、文部科学省研究振興局学術調査官なども兼務。
Q.先生のご専門からお聞かせください。
私の専門は、社会人類学、とくに法人類学です。大学時代に探検部の活動で訪れたパプアニューギニア山間部で目の当たりにした紛争解決方法に関心を持ったことがきっかけです。交通事故のいわゆる損害賠償として、当時のレートで日本円に換算すると約18万円となる現金3650キナに加え、豚77匹が加害者側から被害者側に渡ったのです。また、現地では結婚式でも、日本の結納のようなものとして、現金のほかに豚24匹が新郎側から新婦側へと贈られていました。
現地の人々は豚をとても大切に扱い、人と同じ建物内に部屋を与えたり、人と同じ食べものを与えたりするほど。賠償に必要な数十匹の豚は、加害者が一人で飼育できたり、確保できたりする数ではありませんので、まわりの人が協力して豚を集めます。受け取った被害者側も、それをひろく分配します。結婚式にしても、新郎側が方々から集めた豚は、いずれそれぞれに返すことが前提。大切な豚を通じて人々がつながっていたのです。こうした事例から、地域固有の文化・社会・歴史との関連で決まりごとや紛争解決方法を探究する法人類学に興味を持ったのです。
Q.研究はどのように進めるのでしょうか?
伝聞ではなく、現地で直接、人々の営みを見聞きし、文字化して記録を続けていくことが肝心です。法人類学の研究だとしても、決まりごとや紛争処理方法だけを調査するのではなく、人々の日常をつぶさに見ていきながら、個別のテーマの詳細な理解につなげるのです。近年では約40日間、大学院生の頃は半年間、毎年現地に住み込んで、生活様式や文化を観察しました。年間40日では少ないくらいです。長期間住み込み、さらに繰り返し現地に足を運ぶからこそ、その地域の暮らしの実情やその背景などが見えてくるもの。例えば、現在の調査地であるイゲンベ地方では、伝統的な民族社会のあり様として、ほぼ15年周期で世代交代が生じる仕組みがあります。受け継がれる伝統や創意工夫の変革などを把握するためには、15年を超える歳月をかけて見続けることが必要なのです。
東アフリカでの私の最初の調査地は、ケニア西部のグシイ地方。そこでは、長老が紛争解決に苦悩する姿がありました。裁判をしても、紛争の当事者はどちらも判決に納得せず、人が人を裁く難しさを感じました。その後、調査地をケニア中央高地イゲンベ地方に移して知ったのが、「呪物」を使った紛争解決方法です。
Q.イゲンベでの紛争解決方法について詳しく教えてください。
根底にあったのは、訴えられた人物が嘘をついているとすれば将来きっと災いが降りかかり、そうでなければ何も起こらないという考え方。これは「ムーマ」という方法で、話しあいで解決しない場合、訴えられた人は「呪物」を飲み込むことを求められます。これは、真実を明らかにするための方法のひとつで、ここに現地社会の知恵が現れています。ポイントは、真実が明らかになり、紛争が解決する未来を「待つ」社会だということです。その瞬間がいつになるのかわからないとしてもです。
現地では、自然災害や火事、病気含め、災いや不幸は誰かの悪意や過ちのせいだと考えられています。そして、それが他人のせいではなく自分のせいだと反省する日がくるかもしれない。人間関係や生活環境が変化するなかで、もしかしたら自分が間違っていたのかもしれない、そう気付いて思い改める日がくるかもしれない。ムーマという方法は、その可能性をひらくことでもあるのです。
Q.訴えられた人は呪物として何を口にするのでしょうか?
呪物にはヤギの肉が使われます。現地では、焼き肉といえばヤギであり“ご馳走”です。ただし、平和的な羊と比較してヤギは攻撃的で、破壊力を秘めた動物だと考えられていて、ある方法で処理すれば、危険な呪物になると考えられています。そのような処理をしなければ、もちろん食べても安全です。
具体的には、呪物を飲み込む当事者は、自分と特別な関係をもつ人物が噛んだヤギの肉を与えられます。近年は衛生的な観点から、噛まずに触れるだけでよいとされています。すべての人は特定の親族集団と「イシアロ」という関係を生まれながらに持っていて、イシアロ相手に嘘をつけば恐ろしいことが起こると考えられています。
外側から見れば、責任や罪の有無に応じて呪物が力を発揮するということに科学的根拠はありません。現地では、自分の行動を振り返り、反省を促す材料のひとつになっている。周囲もそう受け止めている。そういうことなのでしょう。ですから、呪物に即効性がない、結論を急がないというところが重要です。
Q.一方で、そこまで待てないと考える人もいると思います。
実は、ケニアの別の民族社会では、呪物を準備する人物が訴えられた人の責任や罪を一方的に確信して、あらかじめ呪物に毒を仕込んでしまう事例もあります。当然、即効性がありますので、口にすれば体に異変が起こります。これが自白の強要に使われてしまいます。当然ながら、冤罪の温床になるでしょう。呪物を使うというところはイゲンベと同じですが、即効性があるかないかという点が決定的に違います。
注意すべきは、これらは決して遠い世界での話ではないということ。現代社会の多くは「待てない社会」であり、結論を急いでしまいます。それは即効性のある呪物を使うことと同じようなものです。アフリカで得られた知見と、日本社会の考察に基づく知見がつながるようなケースもあります。
複数の地域や社会を比較すると、違いや共通点に気づけるものですが、最初から比較するポイントを絞って調査を行うことは得策ではないと考えるのが人類学です。現地に住み込んで、ありとあらゆる日常に接していくなかで、比較すべき軸やポイントが見えてくるのです。先入観を捨て、「これを調べたい」といった線引きをせず、現地をありのまま受け入れることが大切です。何らかの仮説を立てて検証作業に移行するというよりも、調査対象の全体像を把握するなかで、探究のポイント自体が更新されていきます。現地の慣習ひとつとってみても、その由来や背景は複雑に絡み合い、全体的・多面的な理解・解釈・評価が不可欠なので、じっくりと向き合う時間が必要です。
Q.研究でも「待つ」ことが大切なのですね。
まさに問いの立て方も時間の経過とともに変わっていきます。例えば、ある時点で紛争関係にあった2人が和解すれば、それは紛争関係の消滅を意味しますので、無理に結論を求める必要もなくなるわけです。
別の例を挙げると、イゲンベでは、人生の節目である成人式で、動物の毛皮を身にまとい、仮面をつけたダンサーが踊りを披露します。ただ、誰が仮面を被っているかは秘密。私が「あれは誰なのか」と聞いても、決して教えてくれません。それもそのはず。個人の人格を消すための仮面なのですから、それが誰であるかを明らかにしては元も子もありません。仮面ダンサーは村を代表して新成人を祝福する公人であって、個人・私人としての人格的な要素は必要とされないのです。誰であるかという私自身の最初の問いの立て方自体が間違いだったのです。調査地に長年通い、信頼関係を築くなかで、過去のダンサーの正体がわかってしまったということもありましたが、正体を知ることよりも、仮面を使うことのメリットを理解することの方がよっぽど重要でした。
Q.学生にとっても「待つ」ことのメリットがあるのですよね?
例えば、なぜ大学で学ぶのかというのは、すぐに答えの出るような問いではないと思います。高校時代、大学在学中、大学卒業後で、答えが変わっていくのは自然ですし、そのような問いの先にもっと深い問いを手にできるかもしれません。学びへのモチベーションとして、その都度、暫定的な答えは出していくことも大切ですが、新しい答えや新しい問いを発見することは成長のひとつですので、その意味で結論を急がない態度も大切だと思います。私の調査もそうでしたが、時間をかけて向きあうことで、突き詰めて探究したいポイントが自然と見えてくるものですし、それまでに得た点の情報や知見がつながって線になっていくのだと思います。
なお、人類学に興味がある学生にとって最も大切なことは、海外に出かけること。その際に重視すべきことは、安全の確保と健康維持です。現地での調査は「探検」であって、危険を冒す「冒険」ではありません。探検は、あくまでも知の探究。冒険することなく、安全と健康を維持することが何よりも大切です。
最後にひとつつけ加えたいことがあります。都立大にはかつて、法人類学の世界的な権威である故千葉正士先生が長年在職され、私自身、千葉先生の研究成果も手がかりにしながら研究を進めています。学生のみなさんにも、都立大で学ぶことのメリットを最大限活かしながら、さまざまな知の探究に挑戦してくれることを願っています。
総合HP教員紹介ページ/
人文社会学部人間社会学科 准教授 石田 慎一郎(いしだ しんいちろう)